鼻が透っている間は

 まだ僕が上京する前、大学卒業後に地元で働き出して数年が経っていた頃だった。朝の6時には車で家を出て職場入口の開錠をし、営業に必要な準備を整えていた。そして2時間も経たない間に利用者達が続々と来場し始めていた。そして営業開始後も、充分身体と心を休める余裕がないまま立て続けにお客さんの相手をすることになっていた。当時は管理者としての立場だったので、同僚達に指示を出したりシフトを作ったりしていた。もちろん頼みにくいお願いを何度も聞き入れてもらった人もいて、僕が何か口を開けば既に何を言われるのか知っているよと言いたげな表情を浮かべる人もいた。僕は誰かに頼るのが下手くそなんだと思う。あれから5年以上経っているけど、下手くそな部分はそのままあまり変わっていないように思う。

 文字通り朝から晩まで働き続けて、残業代も信じられないほど支給されていたけど、やはり身体はいつか悲鳴を上げる。意識を失って倒れるところまでは経験していなかったけど、お客さんの前で眠ってしまうほど疲れ切っていた。しかもそれを自分では気付いていなくて、お客さんが帰った後に同僚から聞いたのだから全く話にならない。本当の限界まで自分を追い込むこともできず、かと言って納得できるサービスを目の前の人に提供するどころか失礼な態度をとってしまっていることにも気付けなかった。結果的にそういう環境にしてしまっている会社や上司の責任だと誰かは言うのかもしれないし、当時は僕もそう思っていた。でも自分自身もどこかそういう環境を甘んじて受け入れてしまっていた。状況を健全な方向に変えようとする努力をしていなかったと今は思っている。

 不健全と言っていいその労働環境が直接の原因なのかは今となっては分からないが、副鼻腔炎に悩んだことがあった。東京に来てからも何度かその症状で耳鼻科に通ったけど、地元で働いていた時ほどではなかった。花粉症のように花が詰まり出すけど、放置すると鼻のもっと奥が塞がっているような感覚になる。鼻を噛んでもあまり改善は見られず、仕事も簡単に休める状況ではなかったので医者の診察を受けることにした。職場のすぐ近くにその病院はあった。病院というよりは小さな個人のクリニックだ。大人から子どもまで、幅広い年齢層の患者といつも混んでいる様子を見ると住民からの信頼を集めているのがよく分かった。小さな子どもが時間を潰せる場所も用意されていて、親子連れの姿が特に目立っていた。

 初めてそこに行った時には、症状が出てからそれなりに時間が経っていた。仕事の合間を見つけて予約はせずに出かけた。花粉症と違って春先だけに起こっていたわけではない。季節がいつかというのは関係がなかった。先生曰く、過度のストレスか体調を崩していることが原因かもしれないとのことだった。確かにその頃の労働時間は1日で12時間を超えることも珍しくなかった。タイムカードだけ見たら本当にその時間ずっと職場にいたのかと言われそうな数字が刻まれたいたけど、誰かに直接それを指摘されることはなかった。実態との乖離はほとんどなかったからだ。処方された薬を使うと一時的に症状自体は収まったが、労働時間はそのままだったのですぐに再発していた。何か手伝おうかと聞かれることはあっても、労働時間を減らす為にこうしなさいと指示をする上司はいなかった。仮に無理矢理労働時間を減らす為に早く切り上げたとしても、終わらせたい仕事が終わっていないのだから気が休まらない。少なくとも僕は今でも、労働時間の長さ以上に携わる人員の数が少ないことが問題だったと考えている。

 管理者としての立場から退き、その職場で働き始めた時と同じアルバイトに戻してもらった。僕が本当にやりたいことはここにはないと思って上京することになる。もう過ぎたことだし、嫌な思い出だけしかないわけではない。上京した後、実家に帰省することはあってもその耳鼻科に行くことはなくなった。そのクリニックで診てくれていた先生は、職場のお客さんの1人でもあった。そして僕の祖父のことも知っていて、思わぬ繋がりがあったことも分かった。当時の生活に比べたら、今は身体的には随分と余裕のある生活をしていると思う。そして圧倒的に幸せを感じてもいる。でも当時の過酷な日々がなければ今の自分はなかったとも言える。もっと健全な時間の使い方ができたかもしれないとは思うけど、後悔はしていない。待合室の一角は今も子ども達の声で賑わっているだろうか。

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