染み布団にぶちまける

 何でそんな状態になるまで酒を飲んでいたのかは、今となってはもう思い出せない。狛江に住むことが決まったのは、東京都内で仕事が決まってからすぐだった。下北沢に住みたいという最初からの希望は忘れずに、やはり家賃的にも通勤時間的にも妥協点を探って生活を皆始めるんじゃないかと思っている。妥協という言葉を使ったが、不動産屋に丸め込まれて物件を決めたわけではない。シャワーとトイレは別がいい。玄関の扉に隙間は絶対あってほしくない。洗濯機を建物の外には置きたくない。下北沢に住んでから分かったことだが、下北沢で払う家賃なら狛江ではそれなりに余裕のある物件に住むことも可能だ。今下北沢に住んでいることを後悔してはいないが、現実的な家賃の値段は狛江なんだろう。

 一晩中眠らずに街中を歩き続けたことはないけど、きっと下北よりも狛江の方が人の気配は圧倒的に少なくなると思う。僕は夜更かしが得意ではない。夜型人間にもなれそうにない。そうなりたいとも思わないし、朝きっちりと起きて夜は程々の時間で眠たくなるのは幼い頃からの生活習慣だから両親に感謝すべきだろう。そうは言っても、やっぱり大人になれば職場の同僚達と遅くまで飲みに出かけることは少なくない。おしゃべりが得意な人間ではないけど、肩肘張らずに気の向くまま付き合える人達とは時間の長さをあまり気にしなくなる。酒の入ったグラスを掴む手が止まっては動きをゆっくりと繰り返していた。楽しい時間を過ごす為に横に添えられた物としか思っていない酒も、そんな時はいつもよりも飲み過ぎてしまうことが時々あった。

 どんなに気持ちよくなっても、朝まで飲み続ける気にはなれなかった。翌日もそのまま気持ちよく過ごすことはできたことがないし、それで結局差し引きゼロになってしまう。ゼロならまだいい方かもしれない。マイナスになってしまったら仕事に集中できないし、気持ちが晴れるまでひたすら祈るように水を飲み続けることくらいでしか耐えられない。精神的にも肉体的にもそんなもやもやが半日くらいで徐々に回復していく。何か温かい物を食べたいと思って作った簡単なスープでも、それが例え即席の味噌汁であったとしても、口から入って喉を通って胃に到達する過程で沁みていく。温もりを持った大きな手のひらで、背中をさすってもらっているような感覚になっている。そしてその度に、次は程々にしておこうと自分に言い聞かせていた。

 狛江までの終電の数本前の電車に乗っていた。新宿駅の構内を出るとすぐに夜の闇が列車を包む。目を瞑ってしまわないように額に皺を寄せて瞼を持ち上げ続けている。片腕を何とか吊り革に引っ掛けたまま、電車の振動に合わせて軽く前後左右に揺れていた。停車駅が地下に潜っている駅以外は、停車する度に開くドアの向こうは夜の色だった。新宿からだと各駅停車では結構な数の駅に止まらなければならない。酒を飲んでいなければ気にするほどの時間ではないはずなのに、いつもより目的地が遠く感じた。下北沢を過ぎて地上に出ると、それから先の駅のホームは皆同じような作りに見えた。案内板に書かれた文字が違うだけだから、ぼぉーとしていると簡単に見逃してしまいそうだ。もう一度自分の額に緊張感を取り戻そうと視界のピントを合わせようとする。僕は車内にいたはずなのに、放送の声は遠くから聞こえていた。

 蛍光灯の明かりが照らすホームに降りてエスカレーターに乗った。カード型の定期券を改札にタッチして出た。駅前には人の姿が見えたけど、スマホの画面から放たれた光が彼らの顔を照らしているだけで、何をしているのかまではよく分からなかった。駅からまた10分以上歩くことになっていた。その時目の前に誰かが布団を敷いてくれたなら、そのまま構わず倒れ込んでしまいたかったけど、そんなことは僕の頭の中だけでしか起こり得ない。玄関の扉の取っ手を掴むまで歩き続けるという選択肢しか僕にはなさそうだった。駅前を少し離れただけで街灯の数は一気に少なくなって、少しの物音にも敏感になってしまっていた。歩きながら喉も乾いていた。コンビニに寄ることも考えたけど、身体は一刻も早く布団に入ることを求めていた。

 扉を開ける音が聞こえた。部屋の電気を付けたのと同時に布団の中に身体が入った心地がした。次に目が覚めて布団の上に上半身を起こした時には、着ていたシャツの上を流れてしまっていた。まったりと内側にまとわり付いていたもの達が一気に飛び出してしまっていた。

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