象徴でも代表でも

 いくら僕が声高に叫んでも、1年に1回しかない僕の誕生日が祝日になって休日扱いになることはないだろう。僕にこの先どれだけ劇的な変化が起きようと、それだけはきっと叶わないと思う。でも実際に自分の誕生日を日本にいる人全員が知っていたら、果たしてそれは気持ちがいいことだろうか。誕生日当日に自宅以外のどこにいても、誰かから声を掛けられるかもしれない。「おめでとう」と言ってくれる人がいるかもしれないし、「なぜあなたの誕生日が祝日なんだ」と文句を言い出す人が全く現れないとも言い難い。あるいはただ単に祝日としての1日を皆が思い思いに過ごすだけなのかもしれない。それならそれで注目されないわけだから、皆の休日が増えるだけで特定の誰かが大きく損をすることはなさそうだ。

 僕は何も自分の誕生日を本気で休日にして欲しいと思っているわけではない。昨日も今日も、そして明日もその先も、365日必ず誰かの誕生日のはずだ。できることならその日は仕事や学校を休んで、親しい誰かとお祝いをしたいと思う人も少なくないはずだ。誕生日当日に仕事を休むのならば、僕の場合は有給休暇を取得するという方法がある。自分の誕生日なのでお休みします、とは中々正直に言いづらい。でも実際は私用でと言って、それ以上は聞かれないから休暇を取るハードルは高くない。週末の直前か直後、もっと言えば金曜日もしくは月曜日に誕生日が重なっていればゆっくり過ごせる。個人的には金曜日が誕生日当日で、祝ってもらった余韻を残したまま週末を過ごせたらと思っている。

 僕が働いて、僕が間接的に収めている税金を元にして生活をしている人達がいるという実感は全くない。彼らをこの国の象徴だと言う人達もいる。一体この国の何を象徴しているのだろうか。外国人達が彼らの姿を見て、実際に街で生活する人々を何となくでも想像できるのだろうか。心を痛めているとか心は寄り添っていると言われても、どこか遠くから微かにしか聞こえてこない言葉のようで、僕が彼ら彼女らを身近に感じることはない。テレビや書籍に掲載された画像でしかその姿を目にしたことがない人達を、どうやって自分が住んでいる国の象徴として受け入れればいいのかが未だに分からない。でも誰かに受け入れろと言われたことは今のところない。しょっちゅうそのことを考えているわけでもない。

 いっそのこと、誕生日には休暇を取得できるように決まりを作ってくれたらと思う。でも誕生日だからといって他の誰かと一緒に過ごす必要もない。派手ではない穏やかな時間の中で、毎年のことではあるけれど1年に一度しかないありきたりで特別でもある24時間を噛み締めるのも悪くはない。当日の朝目覚めた時に、身体中の細胞が全て新しく入れ替わっているような感覚。本当にそんなことが身体の内側で起こっていれば年齢を重ねることへの不安な気持ちも薄らぐのかもしれないが、現実には起こらない。でも毎年ただ老いていくと口にするのは簡単だけど、気の持ちようとしては後ろ向きではいたくない。後退するということとは無縁の存在に思える月齢の息子を見ながら、「病は気から」といつも言っていた祖父のことを思い出す。

 自分以外の他の誰かを簡単に連想させるような生き方はしたくない。最初は周りの大人の真似事から始まるということは、幼い息子と一緒にいることで実感して理解できる。大人になってからの自分にはないものを取り入れる試みも、ある意味では他の誰かの真似事に近い部分もある。自分以外の複数の人間の意見を代表して書いているわけでもない。あくまでも僕個人が思っていることを記しているだけだ。中身は人間の数だけあって、象徴という言葉ではそれらに蓋をすることはできない。僕は彼らが1億人以上の大勢を象徴しているとは思えないし、代表して存在しているとも考えられない。正しいとか間違っているという話ではない。どう考えて行動するのかは自分次第なのだから。

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