気持ちの形

 僕が生まれた30年以上前に、祖父母達から僕の両親へ出産祝いが贈られたかどうかは知らない。父や母に僕から尋ねたことはないし、実際にどうだったのかを知ろうとも思わない。お金を当時に受け取ったかどうかよりも、今僕が祖父母達のことを尊敬しているという事実だけで充分だと確かに思っているからだ。仮にその時贈られていたとして、きっとそれで終わりではなかったはずだ。物心つく頃には毎年正月になるとお年玉がもらえるであろうことを知ったし、誕生日やクリスマスなどのイベントも毎年あった。幼稚園や小学校、そして中学校や高校の入園と入学があって卒園と卒業もある。全ての機会に贈られた全ての金銭の合計が、一体いくらになるんだろうと全く考えないわけではない。

 息子が生まれたことで、彼にとっては僕の両親が祖父母になるわけだ。僕が祖父母から機会があるごとに金銭などの形のある物が贈られてきたように、両親は僕の息子にも同じことをしてくれるかもしれないし、違う形になるかもしれない。ただ僕は両親にそれをしてもらいたいとは思っていない。もっと言えば、僕からそうして欲しいとお願いすることはしないし、するべきではないと思っている。根底にあるのは、自分の子どものことなのだから贈り物があろうがなかろうが親である自分が何とかするのは当たり前だと考えるからだ。そういう姿勢でいることも含めて、もらえるものだと期待して過ごしたくはない。贈ってもらえることは当たり前のことではない。祖父母と一口で言っても、生活の環境は人それぞれ違うからだ。

 そもそも祖父母がいない家庭だってある。僕の息子に直接会う前に、僕の祖父は残念ながら他界してしまった。僕の両親だって今は2人とも元気に過ごしているけど、いつ何があるかは誰にも分からない。去年から世界中を混乱させているコロナウイルスの犠牲者の中にも、子どもや孫に看取られることなく息を引き取った方がたくさんいるはずだ。そして今もまだ終息していないから、更に犠牲者が増えるかもしれない。お祝いとして贈り物をもらえるかどうか以前の話だ。生きていてくれさえすれば、それだけで心の支えになったりする。直接顔を見られて話をしたりできること以上の価値があるだろうか。お年玉をもらってすぐにポチ袋からお札を取り出して金額を数えていたけど、金額など些細なことだった。お年玉よりも皆で集まって賑やかな時間を過ごせるということが、いかに恵まれていたかに気付いていなかった。

 でもだからといって僕の考えを皆に押し付けることはしない。形で現したいという人の気持ちは尊重する。そして形として、具体的に言えば金銭ということになるのだろうけど、現されるどうかで祖父母や両親との関係が変わることはない。お祝いやお年玉をずっともらって育ってきたから、僕は今でも祖父母の顔を見たいと思っているのではない。両親とは違う接し方で、僕の人格を尊重し助け背中を押し続けてくれているからだ。僕は具体的な形にならない部分で、もう充分与えられてきたと思っている。だから自分から催促する理由が全くない。僕自身はそれで良い関係を築けているかもしれないが、僕の息子との関係はどうなんだと誰かに言われるかもしれない。確かに息子であっても僕とは違う人格なのだから、間違いなくいずれ彼は彼なりの考えを持つはずだ。ここに書いたことを僕の口から彼に話をするかもしれないし、大きくなった息子がこれを読むことだって考えられる。

 誰かの考えを変えたいのではない。自分はこう考えているというだけの話だ。間違っていると思うのならそれを否定はしない。過去から続いている習わしに沿って、他人との和を見出さずにお互いが気持ち良く過ごすことの大切さも、大人になった今少しは身に染みて感じている。それでも金銭や贈り物をするということが本質ではないという気持ちに変わりはない。心で思ったことを表現するのに、形がある物に拘る必要はないと思う。言葉一つでもかけてもらえることのありがたさ、そして言葉をかけてくれる人がいるありがたさを忘れたくない。真に尊いものは、形にはならないのだから。

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