恥ずかしいって何だ

 電車の窓からよく晴れた日の陽射しが入ってくる。窓際に置いたベビーカーにも光が当たって、息子が眩しそうに顔をしかめていた。通り過ぎる線路脇に建つ電柱や住居や看板が一瞬だけ影を作り出し、それらが短時間で現れては消えてを繰り返している。吉祥寺行きの急行の電車内は人がまばらで、少しだけ降ろされた窓の隙間からは早春の微かに冷たい風が紛れ込んでくる。飛ばし飛ばしで停車する電車の出入り口が開く度に、人々の会話が途切れて乗り込んで来る人達の話の続きが何となく耳に入って来る。誕生日プレゼントに買ってもらったSONYのイヤホンの調子が悪い。本体からケーブルの部分だけ脱着可能なタイプなのだけど、少しの力で外れやすくなってしまって快適に使えなくなっていた。

 車両と車両の継ぎ目近くに用意されている椅子に親子連れが座っていた。おそらく小学生か年長さんくらいの年齢の娘さんと両親がいた。彼女は機嫌があまりよくなさそうで、ぐずるような態度をとっていた。少し声も荒げてお父さんとお母さんを困らせていたようだった。僕は彼らの近くにいたので会話が聞くともなく聞こえていた。お母さんが「そんなことしたら恥ずかしいよ」と娘さんに諭すように半ば呆れたように言ったのが聞こえた。電車の中で大人しく座っていられないのは恥ずかしいという意味だろうか。確かに電車内で大声で話を話したり、思うまま泣き叫ぶ人を見たことがないし、自分自身もそういった行動をとろうとは思わない。

 もし息子が電車内で同じ状況になったとしたらどうしただろうか。少なくとも「恥ずかしい」という言葉を使おうとは思わない。子どもの行動で親が恥ずかしい思いをするのは、いくら普段言って聞かせていたとしても仕方がない時もある。そもそも親なのだから、子どもの行いによって親である自分が恥ずかしい思いをしていると彼らに向かって僕は言えない。親として子どもに関わる以上、彼らの行動によってもたらされる感情は受け入れるべきだと思っているし、その覚悟がなければ親は務まらないんじゃないかと思っている。電車内で泣き続ける子どもの様子を見て親がそれを恥ずかしいと思っても、子ども本人が自分の行動を客観的に判断できなければ、親が「恥ずかしい」と言いたくなる気持ちも伝わらない。

 そうは言ってもやはり親も人間だ。子どもよりも長く生きているし、その分できることも多い。そして僕は特に大切なことだと思うのだけど、子どもの頃に感じていた疑問や感覚を忘れがちでいる。親からこうしなさいと言われたことや、学校の先生から指摘されたことを当時はなぜだろうと考えてもやもやしていた。でも時間の経過と共にそれについて考えることもなくなって、そういうものだからと無意識に納得するようになっていた。子どもに何かを伝えようとする時にいつも考えるのは、どうすれば本人が納得して行動を改めてくれるかということ。口から発する言葉や行動に目を向けることが必要だと思う。息子はまだ1歳に満たないけど、僕が話す言葉を聞いていると思って接するようにしている。だからといって子どもの完璧な手本になれるとも思っていない。僕がこうして欲しいと思ったこと全てに彼が納得するとも思っていない。要は彼は僕とは違う1人の人間であって、親である僕の分身ではないということだ。

 似ていると言われればもちろん嬉しい。この先彼が大きくなって「お父さん、かっこいい」とか「お父さんみたいになりたい」と言ってくれれば僕は素直に喜ぶと思う。それと同時に、彼が彼自身のことも大切にして生きて欲しいと思う。自分がどう生きていくかを自分で決めていけるようになって欲しい。その為に助けが必要なら応援したいと思う。今はまだそれ以前の基本的な生活習慣を身に染み込ませている最中だけど、実はもう既にお腹から出てきた瞬間から、自立に向けて動き出している。まだ僕の後ろから何とか追いかけることしかできなくても、横に並んでいつか僕とは違う方向に自分の足で歩いていく日が必ず来ると信じている。

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