渋谷上空、ヘリポート
東京で一番高い場所ではない。そこよりも高い場所は他にもあるし、人が昇れるかどうかを別にすれば桁違いの高所というのは東京にも存在する。でも少なくとも高さと景観の豪華さを両立した場所を、東京では他に知らない。下北沢から京王井の頭線に乗って急行電車なら一駅、各駅停車でも数駅で行ける渋谷駅を降りて、屋外に出ることなく辿り着ける。高級ブランドの専門店がいくつも入り、多種多様なお店が複数階に渡って店舗を展開している。そしてそのビルの屋上が、今日僕が初めて足を踏み入れた場所だった。知っている東京の名所が見渡せる場所だった。2月中旬だったけど、雲がないと日差しをもろに受けて暑くなる。風が吹き抜けて火照りを拭ってくれたらいいのだけど、景色を楽しむ為なのか背の高いガラスの壁が通せんぼしていた。
ベビーカーに息子を座らせて妻と3人で出かけた。渋谷駅までは難なく着いたのだけど、駅構内を記憶を頼りに進んで行くとベビーカーでは移動が難しいと感じた。電車を乗り入れるホームの階からだとエレベーターが見当たらない。数段ならベビーカーを持ち上げて移動できなくはない。ただそれ以上の階段になると持ち上げるにも一苦労だし、何かあった時に安全とは言えない。帰る時に知ったことだが、一度地上まで降りてからエレベーターに乗る必要があったようだ。久しぶりに来た渋谷駅は、まだそこかしこで工事が進められていた。これからもまた何度も構内を移動する動線が変わるんだろうなと予想しながら、探検してみるようなつもりで歩いた。
ベビーカーを何度か持ち上げて移動しながら、渋谷スクランブルスクエアの入り口に到着した。自動ドアを通ってエレベーターに向かった。特に専門店に用事はなかったので、どこにも寄らずに屋上へ直行する。渋谷スカイと呼ばれるその展望施設は有料のチケットを購入して入場することになっている。0歳の息子は無料だった。普段の買い物をiDで支払っているから同じように支払いができると思ったら、対応していないと言われた。Suicaは使えるけどiDが使えない店が時々あるけど、どちらも決済手段としては大差なく見えるが、何か特別な事情があるんだろうか?支払い自体は他の手段で済ませてポールが立てられた間を縫うように進んだ。
ベビーカーを押していたからなのか、係員がエレベーターまで案内してくれた。エレベーターの中は薄暗く、扉が閉まるとすぐに天井部分に光の軌跡を描いたような演出が現れた。ベビーカーに座りながら顔を上に向けて、口を半開きにしたまま息子がじっとそれを眺めている。かなりの距離を移動しているはずだけど、それを感じさせないほどエレベーターに乗っている時間は短かった。扉が開くとすぐに何もない空の青が視界に入った。ベビーカーを押したまま屋外には出られないと説明を受けた。鞄も持ち出せない為、荷物は100円ロッカーに預ける。息子を抱っこ紐で抱えたら、ガラス張りの自動ドアを通って外に出た。屋上の周囲はかなり背の高いガラスの壁に囲まれていたが、透明度が高く建物の高さをすぐに思い知らされる。壁際まで近づくには、少し勇気がいるかもしれない。短めのエスカレーターで、ヘリポートがある更に一段上の場所に向かった。エスカレーターの左側には、ガラスを隔てて足場が用意されている。一体誰がこの足場を使うのか知らないが、恐怖でしかないと思う。
太陽の光を遮る物が何もない屋上だ。真ん中は芝生が敷き詰められていて、アルファベットで大きくHと描かれたヘリポートになっている。今日はヘリが着陸することはないようで、訪れた人達はポーズを決めて写真を撮ったり、踊るように身体を動かしていた。東京タワーが見える方角には、置かれていたソファーで昼寝をしている人達もいた。360度視界を遮る物は何もない。スクランブル交差点も、新国立競技場も新宿も眼下に収まっている。東京の都心を全て手中に入れたような爽快感があった。見下ろしている建物や道路の一つ一つに人間の営みがあるはずだけど、それらは全て風景の一部になって溶けてしまっているようだった。またこの景色を見たいと思う。昼間ではなく太陽が西の空に沈む夕暮れ時に。文明の営みが夜の闇の中で明滅する時に。