ガス漏れ、1R
部屋の東側には窓がない。別の部屋に面してはいないけど、朝陽が入るのは南側の窓からだけだった。でも南側には1階から上がってくる階段を挟んで建物の続きがあったから、すぐに太陽の光は閉ざされてしまう。そしてその後は、夕方の西陽がきつくなるまでは陽の光が射し込むことはなかった。小さなガスコンロは、玄関横の小さなキッチンで元栓に繋がれて置かれていた。手料理と言えるほど手間を惜しんで何かを作った記憶はない。スーパーで米を買って蓄えてはいたけど、使わないでいて、気付いた時には黄色く変色していたことも何度かあった。仲良くさせてもらっていた先輩とご飯を食べたり、大学の飲み会で帰宅するのが遅くなることも多かった。1日の始まりに目覚めて、終わりに眠る。それが主な部屋での過ごし方になっていた。
初めて一人暮らしをした部屋は狭かった。窓の位置が向かい合っていなくて、風の通りも悪かった。夏場は特にその影響が大きくて、シャツ1枚でも汗が止まらなかった。僕の記憶が確かなら部屋にはエアコンが備わっていなかったと思う。パンツ一丁になって、なぜかアウトドア用の折りたたみの椅子に座りながら、延々と泣き続ける蝉の声を聞いていた。僕が借りていた部屋はちょうど住人で共用していたトイレの上辺りになっていたはずで、聞こえて欲しくない音も時々聞こえてきた。壁も床も薄かったんだと思う。隣の部屋の住人の声も聞かずにはいられなかった。ということは、こちらの部屋の音もある程度は漏れていたかもしれない。
南側の窓ガラスにはカーテンを買って付けた。それを開け放ったところで開放感に浸れるわけではなかったけど、少しでも外気を取り入れたくて、寒い冬以外はガラス窓を開けっ放しでいた。窓のすぐ下から他の住人が階段を昇ってくる足音が聞こえてくる。工事現場に建てられたプレハブ小屋の2階へ職人達が移動する時に使うような金属製の階段で、一段上がる度に音が響いていた。下から上がってくる彼らの頭が時折窓から見えることもあって、開いた窓から部屋の中を見られるような気がして落ち着かない気持ちになることもあった。2階に到達した後も、部屋の前を移動する時に聞こえる足音や、キッチンのすりガラスの窓から見える人影に理由もなく怯えることがあった。
ある日の朝に部屋の入り口のチャイムが鳴る音で目が覚めた。部屋まで僕を訪ねてくる人物は中々いない。覚めきっていない頭のまま入り口のドアを開けると、大家さんが真剣な顔をしてそこに立っていた。「一晩何をしていたの?」と語気を強めて言われたので、いつものように眠っていただけだと答えた。すると「ガスのメーターがえらい回ってたけど?」と明らかに納得のいかない表情で言われてはっとした。ガスコンロと繋がっている元栓が開いたままだったのだ。更にコンロのスイッチも点火する方向に捻られたままだった。冷静に考えれば大家さんが血相を変えるのも無理はない。僕が借りていたそこは、家賃にガスと水道代が含まれていたのだった。つまり大家さんが僕が部屋で使ったガス代を支払うということ。自炊するにしても限度があると考えられていたんだろう。大学生が一晩中ガスコンロで火を使い続けるなんて、ガス漏れか何か良くないことをしていると思われたのかもしれない。
謝罪して以後気を付けますと頭を下げたけど、大家さんにはガス漏れに気付かず再度火を付けていたらもっと悲惨なことになっていたよとお叱りを受けた。ごもっともだ。大袈裟な話ではなくて、最悪部屋ごと吹き飛んでいたかもしれない。不注意とは言え実際に起こっていたらと思うと恐ろしい。知らせてくれた大家さんには、命を救ってもらったと言っても過言ではなかった。ご夫婦で飲食店を営んでいて、僕が通う大学の学生の間でも有名な店だった。住んでいた部屋の建物の1階部分で営業していたけど、僕はほとんどお店には出入りしなかった。家賃を毎月手渡ししていて少し気まずい雰囲気だったけど、ガス漏れの件で余計に気を使わずにはいられなくなっていた。2年間お世話になった割には、プライベートで話をすることは少しもなかったと思う。
大家さんは当時既に今の僕の父と同じくらいの年齢に見えたから、15年以上経った現在その店がどうなっているかは分からない。僕の人生で危機一髪な時があったとしたら、今のところその1Rでのガス漏れの件で間違いない。心配事は尽きないけれど、自分の身は自分で守ると肝に命じている。