『スイミー』

 父か母どちらか手の空いている方に頼んで、学校の宿題で出された音読を聴いてもらう。声に出して読むのは、その時に授業で取り扱っている作品だ。『スイミー』が載っていたのは、小学何年生の時の教科書だろう。小学生の時に確かにそれを読んだ記憶はあるけど、いつだったかまでは思い出せない。指定された箇所を指定された回数読み終わればいいだけだと考えていたから、複数与えられる宿題の中でも真っ先に片付けたいと思っていた。子ども3人が小学校に通っていると、父と母だけでは一度に全員の朗読を聴くことはできない。だからといってすぐに3人目の聴き手が現れるわけでもない。早く終わらせたいと思う気持ちは、学年が上がって指定された箇所が増え、その中に含まれる文字数が増えるとなおさら強くなった。

 なぜ『スイミー』のことを思い出したかと言うと、今自宅に『スイミー』がまさに置いてあるからだ。自分が読みたいと思ったのではなくて、息子に読み聞かせるつもりで手に入れた。しかも日本語だけではなくて、英語も併記されているタイプだ。各ページに描かれている絵は変わらないけど、英語表記だと雰囲気が違って見える。そもそも原作は日本語ではないのだから、日本語よりも英語表記の方が自然に感じられる。日本語以外の外国語で一番好きな言語で描かれているのも、偶然ではあるけどポイントが高い。とは言っても肝心なのは僕が楽しめるかどうかではなくて、息子が興味を持ってくれるかどうかだ。『スイミー』以外にも絵本はいくつかあって時々読み聞かせている。そのレパートリーに加わることになる。

 スイミーとは、作中に登場する小さな黒い魚の名前。その他大勢の赤い魚に交じって、まさに黒1点と言えばいいだろうか。仲間の赤い小さな魚達よりも泳ぐのが速い。泳ぐ速さが身体の黒い色と何か関係しているのかどうかは分からない。でもとにかく1匹だけ身体が黒くて泳ぐのが速いのがスイミーだ。ある日大きな鮪に仲間の赤い魚達を食べられてしまう。スイミーだけが間一髪逃げ出して無事だった。おそらく泳ぐのが速かったのが功を奏したのかもしれない。命は助かったスイミーだったが、海の中で自分1人になってしまうのだった。海中を進んでいく間に、他の魚や海藻などを見つけながら仲間を失った悲しみや寂しさは薄れつつあった。

 そうして少しずつ元気を取り戻したスイミーは、その後の道中で食べられてしまった仲間にそっくりな赤い魚達を岩陰に見つける。そこに辿り着くまでにスイミーが見てきた色とりどりのものを共有したいと思い、彼らに声をかけてみる。しかし彼らはそこから動き出そうとはしなかった。彼らは自分達が大きな魚の餌になることを恐れていたのだ。スイミー自身もそれが原因で仲間を大勢失っている。スイミーにはきっと痛いほど彼らの気持ちが分かるんだと思う。でも敢えてそのことは言葉にせずに、思い切って暗い穴の中から出て来ないかと声をかけた。そのままじっとしていても状況は変わらないと諭している。スイミーは大きな魚の影に怯えないで済む方法を何とか考えようとした。そして考え抜いて思い付いたのは、自分達が他の魚よりも大きな魚になることだった。大きな魚の身体の部分は赤い魚達にやってもらい、1匹だけ黒かったスイミーは魚の目になることにしたのだった。

 今でも小学校の教科書に載っているだろうか。僕の息子が小学生になるにはまだ時間がある。持って帰ってくる教科書を目の前で広げて、僕にスイミーの話を聴かせてくれるだろうか。『スイミー』は主人公と彼以外の魚の色の違いに目が行きがちだけど、僕は冒頭の赤い魚達が大きな鮪に食べられてしまう場面が印象に残っている。印象に残るし、むしろそのような出来事は実際の海の至る所で起こっていると思わせてくれる。海の中だけではないはずだ。スイミー達にとっては確かに生死を左右する一大事だけど、循環する流れを考えればむしろそれはより自然に近いことで、恐ろしいほど残酷な世界を垣間見ていることにもなる。でもそこまでは絵でも文章でも表現されていないから、あとは想像力で補う。どのように補うのかは自分次第だ。そうして自分だけの『スイミー』が描かれる。

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