90歳までと言わず
僕が90歳になるには、まだ後50年以上もある。今の時点で考えると途方もない時間に感じるし、それは実際に途方もない期間だ。今から50年以上前の祖父母は、今の僕と同じくらいの年齢だった。祖父は去年残念ながら亡くなってしまったけど、祖母はまだ元気にしている。元気にしているというのは、あくまでも僕が祖母の姿を見てそう思っているだけで、内心は複雑なはずだ。何十年も連れ添って一番身近で一緒に暮らしてきた人を失うことが、どれほど辛いことかを僕が知るには若すぎるかもしれない。僕はまだ結婚して数年しか経っていないけど、年数の長い短いに関係なく自分の家族を大切にしてきたつもりだ。その気概を持っていたとしても、時々は波風が立って平穏でない時間が流れることもある。そんな時間を祖父母は自分の何倍も経験してきたからこそ、2人にしか分からないこともたくさんあると思う。
祖父母の家は僕の実家がある街の隣で、祖母は元々僕の実家のある街の出身だそうだ。そして僕が通っていた高校の先輩だということも後から教えてくれた。厳密に言うと、その高校は元々2つの学校が合併してできたらしく、合併前の学校に祖母は通っていたとのことだった。学生服を着ている祖母の姿は全く想像できない。訪ねるといつも熱い緑茶を丁寧に淹れてくれる祖母も、かつては学生だった。ただ僕が当時のことを知らないだけで、誰もが青春と言われる十代の時期を通過していく。祖父との馴れ初めは詳しく知らない。でも2人の過去に何があったかより、2人が共有している時間と空間に自分が混ざっていることを感じている方が重要だった。信頼感というのは、言葉にする以外でも伝わるものだと思った。
母から祖母の誕生日が近いことを知らされた。皆の誕生日を覚えていたいとは思うけど、家族親戚が多いと全員分を覚えておくのは簡単ではない。祖父母の家でよく一緒に遊んだいとこ達も、皆とっくに成人して結婚し息子や娘がいる。僕からすれば甥っ子や姪っ子が増えることになって、余計に思い出すのが難しくなる。そんな嬉しい悲鳴とでも言うべき状況も、元を辿れば祖父母がいてこそだ。本当を言うと祖父母の前には僧祖父母もいたわけだけど、僕が直接関わった人という観点から言えば祖父母になる。祖父が息絶えるのをこの目で見届けた後も、数回祖母の顔を見に出掛けた。正月に帰省して東京に戻った直後にまた状況が変わったから、次に会えるのはまたしばらく先のことになりそうだ。90歳までは何とかがんばると意気込んでいたから、また訪ねてお茶を飲みに行きたい。
竹林に囲まれたその場所には、墓石がいくつも立っている。歩いて行くには距離があるから車を運転して向かうけど、道幅は車幅よりも少し狭いくらいで毎回を気を遣いながらタイヤが砂利を踏む音を聴いている。駐車場と呼べる場所はなくて、道の脇に数台停められる所でエンジンを切る。事前に用意していたビニール袋の中の線香を手に持って歩き出す。火をつける為の着火ライターも忘れない。普通のライターはどうも苦手だ。特にダイヤルのような金属部分を回しながら点火するタイプの物はいつも指先を焦がすような気がしている。ボタンをカチッとするだけのタイプを使いたい。時折背の高い墓石が姿を現すけど、他は大抵が同じくらいの大きさだ。祖父が亡くなってからはまだ訪ねていないけど、2月の冷たい空の下で眠っているはずだ。外は寒いけど、石の中は暖かいのかもしれない。
仕事に真面目な人という印象だった祖父も、実は若い頃は夜遅くまで付き合いで家を空けることが多かったと祖母が教えてくれた。台所の椅子に座り駅伝が映るテレビを静かに見つめる祖父の姿からは想像ができない。「病は気から」という言葉を最初に使ったのは祖父ではないだろうけど、個人的には祖父のオリジナルだと思うようにしている。僕の目には静かな人に見えていただけで、気は充実していたんだと思う。そんな破天荒な祖父を支えて二人三脚でやってきたのは、間違いなく祖母だ。時代が良かったとも言っていたけど、2人の行いが報われたんだと信じている。90歳までなんて言わずに、いつまでも元気でいてほしい。