逆上がりして見た空
体育の授業で行う逆上がりが嫌いだった。理由は単純で、当時僕自身が逆上がりをうまくできなかったから。小学校が休みになると、他の子ども達があまりいない時間帯を狙って校庭まで出かけた。誰かに見られるのは好きではない。黒く冷たい鉄棒を握って、片足を勢い良く振り上げたつもりだった。上がった足と一緒に僕の視界も徐々に空へ向かうのだけど、すぐに地上に戻ってしまう。斜め上空に突き出された自分の足を見ながら、足がそれ以上自分の頭の方向へ移動することはないんだと悟った。中学校になっても大きな変化はなかった。運動が得意な人達をとても羨ましく思っていた。そして今もそれは変わらない。でも今は羨ましいというより、自分の身体を自在に動かすということへの憧れを強く持っている。
鉄棒に捕まってくるくると華麗に回ったり、地面を蹴って風のように速く走ることは自分にはできそうにないと思っていたけど、スピードや力だけでは成立しないスポーツならできるかもしれないと考えた。マイケル・ジョーダンがバスケットボールをやっている映像をどこかで見たんだと思う。中学校ではバスケットボール部に入ることにした。でも頭で思い描いた動きをそのまま自分の身体で再現することは、その時点ではほぼ不可能だった。誰よりも早く自転車で学校の駐輪場に乗り入れて体育館の重い鉄製の扉を開けてシュート練習を何度もした。当時の僕がこれだけやっているのだからと期待していたけど、プロで生計を立てている人達が彼ら自身にかけている期待値とは次元が違ったんだと思う。誰に何を言われようと何がなんでもという強い気持ちには、結果的には至らなかった。
高校でもバスケットボール部に入ったが、1年で退部した。その後に同級生と数人で陸上競技に手を付けて、大会にも一度だけ出場したことがあった。鉄棒もボールも使わなかったけど、その分自分の身体の動きを丁寧に探るような感覚が楽しかった。当時はまだ正式な陸上部がなかったから、放課後は自由練習のような形だった。校庭の片隅には水溜りができた大きなマットや、錆びてぼろぼろになっているハードルがいくつか置かれていた。きちんと部活としてやっている生徒から見れば、帰宅部と同等にしか見えていなかったかもしれない。ただ誰にも邪魔されずに、黙々とひたすら自分自身と向き合う時間が好きだった。筋肉を付けて身体を大きくしたいと思い始めたのもその頃からだった。ウエイトリフティング部とボクシング部が練習していた所で、重りを担いだりして汗を流した。でも後日そこでのトレーニングは、部活の練習以外では使用禁止になってしまって、大学生になるまでは満足にトレーニングできない日々が続いた。
筋トレをするようにはなったけど、鉄棒を握って身体を動かすことはほとんどしなくなった。鉄棒を握っているよりダンベルを担いだりしている方が、行った運動が自分の肥やしになるような気がした。学生でいられる時期を過ぎて年齢を重ねる間に、甥っ子や姪っ子が自分の息子よりも先にできる。彼ら彼女らと遊ぶとなると、小さい時はせいぜい抱っこして声をかけるくらいしかできなかったが、自分で歩けるようになると、こちらが呼ぶどころか「おじちゃんっ!」と呼ばれて後ろを付いて歩くことになる。自分の息子はまだ歩くことはできないけど、すぐに立ち上がって歩き出すことだろう。自分の身体がどんな風に動くかを試しながら、いつの間にか自由自在に動かせるようになっているはずだ。
久しぶりに実家に帰って小学校に行った時、空は青く晴れ渡っていた。新しくなった校舎を眺めながら、昔とは違う位置に立っている鉄棒まで歩く。まだ少し肌寒い空気に晒されて、それはひんやりと冷たかった。当時頭の上にあった鉄棒は、楽に掴める高さになっていた。いや、鉄棒の高さは時間の経過で変わるわけがない。僕の身長が伸びたからだ。両手で掴んで肘を軽く曲げる。何度か地面を蹴り上げる動きだけやって、自分の身体が回転している場面を想像する。うまくできるだろうか。やって見なければ分からない。失敗したって誰が笑うだろう。その時はもう1回と言って、自分の背中を蹴飛ばしてやればいい。地面を蹴り上げた次の瞬間に、僕の上半身は鉄棒の上にあった。腕で身体を支えたまま遠くを見た。空中に浮かんでいるような、地平線をほんの少しだけ斜め上から見下ろしているような、不思議で清々しい景色だった。